昭和二十年五月、旧制中学を卒業して家でブラブラしていたところを先生が足りないので手伝ってほしいということで教壇に立つことになった。担任は、予科練で戦場に行った先生のあとの二年生。かわいいくりくり頭の子ども達との新しい生活が始まった。
新米教師はすぐ子ども達の要求に応じ時間割を無視して沢蟹をとりに出かけたり、昔話を聞かせたり、紙芝居を見せたりと遊んだものである。
そんな日々の中で、昭和二十年七月十四日はわたしにとって衝撃の一日になった。
それは、受け持ちの稲垣泰彦君が艦砲射撃の直撃で八年間の短い一生を終わらせられたのである。
稲垣君のおとうさんは大成病院(今の県立病院)の事務局に勤務しておられ、その関係で病院前の防空壕に避難したところ、直撃をうけておとうさんを除き家族全員がなくなられたのである。
稲垣君はわたしのクラスの級長だった。朝
礼のある日には、わたしが講堂に行く前に「まえーッならえッ」と号令をかけて並ばせていた。授業の時にはよく発言したが、自分だけが目立つ自己主張ではな
く、みんなのことを考えるような態度で、新米教師のわたしにとっては小さな先生でもあった。その稲垣君が…。
●七月十四日/警戒警報発令午前六時、解除九時五十五分。空襲警報発令十二時十分。
その日、警戒警報が発令され、子ども達の登校はなかったが、わたし達は学校警備のため出勤した。警戒警報はたびたび発令されるので、別にいつもと変わる
ことなく、子ども達のいない教室で作品整理したり、先輩の先生から借りたオルガン教則本でオルガンを練習したりしていた時に空襲警報が発令。なんとなく落
着かなかった午前中の空気をしめくくるみたいなサイレンの音は、そのまま戦争の苛酷な幕開きの合図になった。
死をふれ回るかの如き爆音に続き、空気を引き裂きながら天地を揺るがす艦砲射撃の間、校庭の隅の防空壕で恐れおののいていた二時間はあまりにも長く、
ヒュルヒュルという音を聞くたびに自分の人生の終わりを告げる死の宣告みたいに思え、家にいる家族と、受け持ちの子ども達が目の前から離れなかった。
●空襲・艦砲射撃時間/十二時十分より二時十九分位迄。
●釜石小学校校舎の被害なし。至近弾一発。
「艦砲が終わったぞー」という声を聞いた
時には、生きていたんだという実感とともに、製鉄所に動員で行っていた妹の安否が気づかわれてしかたがなかった。幸い、学校の被害がなかったので、許しを
得て妹を迎えに行くことが出来たが、製鉄所への大通りは火災で通ることが出来ず、石応寺の墓地から薬師山を超えることにした。
薬師山の道にさしかかると、至る所に死体
が横たわっており、五体満足なものは一つもなく、腕がなかったり、首のない胴体、躰腔からはみ出たはらわた、焼けただれた頭髪、鼻腔をつく死臭、足元でく
すぶり続ける草木の煙、まるで地獄絵そのまま。昔、石応寺の欄間にあった地獄絵さながら、いやそれ以上のむごたらしさに慄然とさえした。
死体の中をどうにか通りぬけ、爆撃で半分こわれた大渡橋を通って、製鉄所の正門前にたどりついた時はほっとした。
見上げると、釜石の空は焼煙と破壊による煙で包まれ、昨日までの空はどこにも見えない。釜石のシンボルである巨大な煙突は、そのあまりの大きさのために醜く変わりはてた姿になり、戦争の苛酷さをそのまま見せつけていた。
「先生ッ、僕達はがんばりました。」という叫びにも似た声にびっくりしてふり向くと、タンカに乗せられた高等科の生徒達だった。
頭に血のにじんだほうたいをした子、腕を
つっている子、そんな子たちがタンカの上でわたしにむかって挙手の敬礼をして通り過ぎる。製鉄所に動員で来ていたわたしとあまり年も違わない生徒達なの
だ。「がんばれよ」と、声にならない声ではげますだけ。涙が出て来てどうにもならない。
いつもはいかめしい製鉄所の正門も、救護
隊の出入りと、死傷者の運搬でごたつき、それにまぎれて中に入ろうとしたが、内部の異常さに足がすくみ、やはり正門前で待っているよりほかはなかった。や
がて、女学生の一団が教師に引率されて出て来たが、その中に妹の姿を見いだした時には、急に体中の力が抜けていくのがわかった。
翌日、受け持ちの子ども達の安否が気がか
りで訪ねて歩いたが、稲垣君をのぞいてはみんな元気で「先生、おっかなかったよ。アメリカの飛行機におっかけられたよ。」「おらいの家焼けてしまったの
で、山で寝たんだよ。」と話してきかせてくれる。命さえ無事であればと、この時ほど生命の大事さを痛感したことはない。
七月十六日、教頭の命令で先輩の毛馬内先生といっしょに死体の火葬作業にあたることになった。市役所員だけでは人手が不足で学校にも割当てられたのであろう。一番若いということでわたしが選ばれたのであろうが、歓迎すべき仕事ではない。
石応寺の境内に薪を積みあげる班と、死体
運搬の班に分かれたが、わたしは運悪く後者の班に指名された。死体は石応寺の骨堂の中にしいたムシロの上に、まるで魚市場のマグロのように並べられてあっ
た。夏の暑さで腐臭が強く、その上死体は爆撃によるものが多く内臓がはみ出たもの、目玉がないもの、手足がバラバラなもの
――― この世のものとは思われないむごたらしさに、幾度か逃げ出したくなった。
死体をタンカに乗せる時には、死体から目をそむけるのだが、死臭は鼻をつき、胸がむかつくのをどうしようもなかった。
死体を薪の上に積みあげ、油をふりかけて火をつけると、まるで死体の泣き叫ぶ声のようなうなりがあたりの空気をふるわせ、異様な臭いとともに釜石の空を包んでいった。
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