艦砲射撃

 太平洋戦争は開戦当初こそ日本軍が優位に立っていましたが、ミッドウェー海戦での敗戦、ガダルカナル島撤退以降、苦境に立たされるようになります。昭和19年9月フィリピン島・マリアナ諸島が陥落すると、アメリカ軍は航空基地を整備し、同年11月からマリアナ基地のB29による本土空襲が始まりました。これ以降、都市空襲は激化の一途をたどります。









国内・世界のうごき 釜石のできごと
昭和19年【1944】 ●マリアナ沖海戦 空母の大半を失う
●サイパン日本軍全滅

●砂糖の家庭用配給停止
●学徒勤労令、女子挺身労働令公布
●グァム、テニアン日本軍全滅
●レイテ沖海戦 連合艦隊主力を失う。神風特攻隊出撃
●マリアナ基地のB29 東京を初空襲。以後、日本本土への空襲が激化
●釜石製鐵所が軍需工場に指定される
●釜石の国民学校高等科生徒の学徒動員はじまる

●空襲に備え、建物疎開、退避施設・消防水利の強化が始まる
昭和20年【1945】 ●3月10日 東京大空襲。
 都市空襲は激化の一途をたどる。 同日盛岡も空襲をうける

●硫黄島日本軍全滅
●ドイツ無条件降伏
●沖縄の日本軍全滅
●7月10日 仙台空襲
●7月26日 ポツダム宣言発表
●8月6日 広島に原子爆弾投下
●8月8日 ソ連対日宣戦布告

●8月9日 長崎に原子爆弾投下
●8月15日 日本無条件降伏 第二次世界大戦終結
●製鐵所インクライン上に高射砲隊駐屯
●貨物船大愛丸 釜石沖で米潜水艦の雷撃により沈没。乗組員70名全員死亡
●4、5月 釜石市の国民学校 学童疎開
●7月14日 釜石市に第1回目の艦砲射撃
●7月15日 釜石市と周辺の都市に機銃掃射 戦災死者の火葬を開始
●8月9日 釜石市に第2回目の艦砲射撃

●9月 疎開児童帰校
●9月 連合軍捕虜引取りのため来釜。市内の寺社、学校等が略奪被害にあう
●10月 米国戦略爆撃艦砲射撃調査班来釜








【空襲への備え】

 釜石は東北で唯一の製鉄所をもつ軍需都市であったため、大規模空襲にみまわれることが予測されていました。各地に監視硝が配置され、高射砲連隊が駐屯していました

 建物疎開や公共防空壕・防火用水の整備、防火体制の強化がなされ、官民一体となった防空訓練も盛んに行なわれていました。各家庭では窓ガラスに飛散防止の紙テープを張り、防火水槽や火たたきを備え付けていました。


 昭和20年3月10日東京は大空襲を受け、この日だけで推定で10万人もの人々が亡くなりました。また同日盛岡もB29による空襲を受け、駅前は焼け野原となりました。これを受け岩手県は釜石市の国民学校初等科(現在の小学校)の児童の集団疎開を勧告、同年4月と5月に集団疎開が実施されました。また、一般家庭の縁故疎開や家財道具の疎開も行なわれるようになっていきました




疎開中の中妻国民学校の児童
松原町内会の防火訓練
松原町内会の防火訓練
疎開中の中妻国民学校の児童







【 艦 砲 射 撃 】

昭和20年7月14日、釜石は本州初の艦砲射撃を受けました。砲撃は12時10分から14時10分まで続き、2,565発もの砲弾が打ち込まれました。
 1回目の艦砲射撃では製鉄所を中心に砲撃が集中し、鈴子・只越地区、嬉石・松原地区などが大きな被害を受けました。防空壕に避難した市民の中には砲弾の破片や爆風で死傷する者、壕の崩壊で圧死する者が相次ぎ、さらに艦砲射撃による火災が発生し、街は焼野原となりました。


 89日、長崎に原子爆弾が投下された同日、釜石に対して2度目の艦砲射撃が実施されました。この日の砲撃は12時47分から14時45分まで続き、2,781発以上の砲弾が打ち込まれました。
 2回目の艦砲では再び製鉄所が攻撃されたほか、中妻、小川・小佐野の社宅街などが被害を受け、多くの住民達が犠牲となりました。また、1回目の艦砲射撃で被害の少なかった大渡・東前近辺が火災により焼失しました。

 製鉄所は第1回目の被害から辛くも復旧し操業を再開できる状態になっていましたが、この攻撃により工場は完全に破壊され、機能を停止してしまいました。




大渡1,2,3丁目
薬師山周辺
大渡1、2、3丁目 薬師山周辺

破壊された製鉄所の施設
破壊された製鉄所の施設



 2度の艦砲射撃により街は廃墟と化しました。多くの人々が負傷し、あるいは命を奪われ、また財産を失いました。

 死者の中には連合軍捕虜、中国・朝鮮半島の労働者、軍関係者も含まれています。軍関係者のうち特に多いのは、7月14日釜石沖に停泊中艦砲射撃を受け、沈没した第48号駆潜艇の乗員で、28名が死亡しています。


 艦砲射撃とあわせて、艦載機による機銃掃射が行なわれましたが、米軍による記録が残っておらず、詳細は不明となっています。機銃掃射では釜石のみならず近隣する市町村でも被害を受けています。




被 弾 数

16インチ砲 8インチ砲 5インチ砲
7月14日 802 728 1035 2565
8月9日 803 1392 586 2781
1605 2120 1621 5346
※8月9日、イギリス艦隊の使用砲弾数は不明
焼野原になった市街地
焼野原になった市街地
釜石の市街地は2度の艦砲射撃によって焼野原となった。



人 的 被 害

全 焼 半 焼・
一部焼
全 壊 半 壊・
一部壊
死 亡
7月14日 1460 18 163 878 431
8月 9日 1470 19
117 195
283
軍関係・捕虜 - - - - 68
合 計 2930 37
280 1073 782
※釜石市調べ(令和4年)







【終戦、復興へ】

 2度の艦砲射撃によって釜石の町は焼野原となり、釜石の象徴である釜石製鉄所は壊滅的な被害を受けて操業を停止していましたが、市民の復興への熱意から復旧工事がすすめられ、昭和23年5月には第10高炉火入式を挙行、操業が再開されました。また、昭和22年には戦災都市巡幸で昭和天皇が釜石を訪れ、市内と製鉄所を視察されました。
 

第10高炉火入式の様子
戦災都市巡幸で釜石に立ち寄られた昭和天皇
第10高炉火入式の様子
(昭和23年5月15日)

戦災都市巡幸で釜石に立ち寄られた
昭和天皇
 (昭和22年8月8日)





  

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