かまいし探訪
その8
かまいし文学碑めぐりB  釜石市文化財審議委員会 
 会長 菊池 清人 
かまいしの文学碑マップはこちら↓をご覧ください
文学碑マップ
 D 薬師公園内の文学碑
 大渡町の薬師公園には6件と最も多くの碑があります。

 薬師公園と公園内の文学碑についてはコラムで一度触れているので、ここでは簡単に紹介したいと思います。 
 
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 薬師公園入口の左手、市保健福祉センターとの境になっている自然石の壁面上に俳人・花の本聴秋と作家・巌谷小波による俳句が刻まれております。

 聴秋と小波は何度か釜石を訪れ、俳句の指導などをしています。薬師公園中腹の平和観音堂(観音寺)の傍らにも、聴秋の句を刻んだ岩があります。
  聴秋・小波の句を刻んだ岩(薬師公園入口)   聴秋の句を刻んだ岩(観音寺境内)
聴秋・小波の句 聴秋の句
「はつ日の出暫時あって波ひとつ」 聴秋
「そのむかし海嘯の襲ひしところかや」
「涼しさや松にのみきく濤の音」  小波 
「名月や御国を富寸煙の上」 聴秋
 薬師公園の入口階段手前に聴秋や小波らとも交流のあった俳人・工藤俳痴(大助)の句碑があります。工藤俳痴は医師としても釜石の医療界に大きな貢献をしています。

 平和観音堂
観音寺)の傍らには、俳痴と妻の藤女との夫婦句碑もあります。
 俳痴句碑(薬師公園入口)
俳痴・藤女夫婦句碑(観音寺境内)
俳痴句碑 俳痴・藤女夫婦句碑
「長命は平凡にあり桃の里」 俳痴
「すいと来てやんまの通る座敷かな」 俳痴
「夕晴にこぼるゝ花や茶の木原」 藤女
 薬師公園の中腹には板澤武雄の文学碑もあります。

 板澤武雄は日本の蘭学研究の権威として知られています。また、釜石市誌編さんなど郷土の歴史研究にも尽力しました。
【碑文】  かわりゆく我がふる里のふるごとを
  伝えおかばや後の世のため

 この歌は板澤武雄が自分のふる里である釜石の歴史のことを思って詠んだ歌の中の一首である。
 武雄は釜石出身の歴史学者で、明治二十八年一月板澤真小雄、母喜智の五男として生れた。遠野中学校、東京帝国大学史学科を卒業、学習院教授、東大文学部教授、法政大学文学部教授を歴任、わが国蘭学史の権威者、文学博士。昭和三十七年七月十五日六十七歳で没した。
 
 平成二年三月 釜石
 板沢武雄文学碑(薬師公園中腹)
板沢武雄文学碑
  ア ク セ ス
薬師公園
【所在地】 釜石市大町

詳しい地図はこちら マップファン
薬師公園
薬師公園内の文学碑については、こちらもご覧下さい  → かまいし探訪4 薬師公園
 E 柳田國男文学碑 「雪国の春」
 上で紹介した板澤博士とも交流があり、『遠野物語』の作者として著名な柳田國男の文学碑が鵜住居町の常楽寺にあります。
 
 柳田の『遠野物語拾遺』には橋野町の民話が多く載せてありますが、柳田は板澤博士の兄で観音寺住職であった永良氏や、製鉄所鋳鉄課長から尾崎神社の宮司となった山本茗次郎氏(海にまつわる民俗学者としても著名)と交流がありました。

 柳田は大正9(1920)年の東北旅行で釜石を訪れ、この旅行を基に『雪国の春』を出版しています。文学碑には「北の野の緑」と「豆手帳」の一節が刻まれています。 
柳田國男文学碑
  碑 文   アクセス
  雪国の春          柳田國男

 東北の風光の美しいのは誰に聞いても紅葉の秋だという。それから後の冬木立の山野もよし、春は四峰の雪白水が充ちあふれて、蛙・郭公の啼くころの若緑も、永く待っただけに、人の心をとろかすようにあるらしい。
 それが再び次の秋に移っていくまでの数週間は、土地の人々には休憩であり昼寝であって、必ずしもこれを顧みるに足らぬのか知らぬが、生憎その時ばかりが旅行者の季節である。
 それも火酒を頓服するような都人式の急行納涼ならば、変化の少しでも激しいのを喜んでもよかろうけれども、あるいはたたずみあるいは腰を掛けて、静かにみておりたい者には、少しくあの色彩が単調であり、また無用であるように感じないわけにいかぬ。
 (北の野の緑)

鵜住居の浄(常)楽寺は陰鬱なる口碑に富んだ寺だそうだが、自分は偶然その本堂の前に立って、しおらしいこの土地の風習を見た。
 (豆手帳から)



柳田國男(一八七五年〜一九六一年) 民俗学者。
大正九年釜石を訪れた。遠野物語では釜石の民話が二十数編収録されている。
柳田國男文学碑
【所在地】 鵜住居町 常楽寺境内

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