その4 |
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薬 師 公 園 |
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釜石の市街地にあり、市民にはなじみの深い薬師公園ですが、
その歴史や見所はあまり知られていないのではないでしょうか。
平成21年春には公園設備が改修されました。
改めて足を運んでみてはいかがでしょう? |
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薬師公園へのアクセス
釜石駅から徒歩 約10分
※入口から上の広場までは急な坂道がつづきます。
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詳しい地図はこちら↓をクリック! |
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@ 花の本聴秋・巌谷小波 句碑/工藤俳痴 句碑 |
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薬師公園の上り口左手側の岩に、俳人・花の本聴秋(はなのもとちょうしゅう)と児童文学者・巌谷小波(いわやさざなみ)が明治42年に釜石を訪れた際に詠んだ句が彫られています。
これらは字が薄れ、見つけづらくなっていますのでじっくり探してみてください。
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花の本聴秋 【1852〜1932 俳人】 |
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はつ日の出しばらくあってなみひとつ |
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巌谷小波 【1870〜1933 児童文学者】 |
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そのむかし海嘯(つなみ)の襲ひしところかや |
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涼しさや松のみに聞く涛(なみ)の音 |
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入口左手には工藤俳痴(はいち)の句碑があります。
工藤俳痴(本名 工藤大助)は明治4年盛岡の生まれで、従兄弟に石川啄木がいます。明治29年に津波で大きな被害を受けた釜石の町医として招かれ、その後製鉄所病院医師、同病院長、町立釜石病院長などを歴任し、釜石の医療界に大きな貢献をしました。
謡曲や盆栽、俳句などを好み、特に俳句では生涯に36万6千もの句を残すなど、釜石の俳句界の先駆者でした。明治42年には花の本聴秋より「俳痴」の俳号を、昭和3年には花の本につぐ宗匠(そうしょう…教える立場としての称号)である「柿の本」を贈られています。 |
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工藤俳痴 【1852〜1932 医師・俳人】 |
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長命は平凡にあり桃の里 |
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A 観 音 寺 |
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上り口から坂道を登ってゆくと、左手に観音寺(かんのんじ)が見えてきます。
観音寺は市内で最も古い歴史のあるお寺で、大正5年に中妻から移転してきました。
昭和20年、艦砲射撃により当時のお堂や貴重な資料が焼失してしまい、現在の堂宇は戦後に再建されたものです。
本尊として、昭和23年に当時の国分岩手県知事を介して贈られた平和観音が納められています。
境内には工藤俳痴とその妻・藤女の夫婦句碑や花の本聴秋の句を刻んだ岩もあります。
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B 敬天律師 墓碑・板沢 武雄 文学碑 |
観音寺より少し坂道を登ったところに、敬天律師(けいてんりっし)の墓碑と板沢武雄博士の文学碑が並んでいます。
敬天律師は延享2(1745)年生まれ、14歳で天台宗寺門派(現天台寺門宗)の総本山園城寺に上りました。それから28年に渡って修行を積み、名僧として知られていました。
本山での修行を終え釜石に戻ると、薬師堂(現在の観音寺の場所にあった)を再興し布教につとめ、また近江八景にならって”釜石八景”を選定するなどしました。この釜石八景には”広厳山の秋の月”として薬師山からの風景が含まれています。
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板沢武雄博士は日本の蘭学史の権威として知られています。
明治28年観音寺の五男として生まれ、遠野中学校、仙台第二高等学校を経て東京帝国大学を卒業。その後宮内庁図書寮勤務、オランダ留学等を経て学習院大学・東京帝国大学・法政大学の教授を歴任しました。
皇室とも交流があり、昭和天皇・皇后両陛下にたびたびご進講を行なっています。
戦後は観音寺の18世和尚として寺の復興に力を尽くし、また釜石の郷土史研究や釜石市誌編さん委員としても活躍しました。 |
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板澤武雄 【1895〜1962 大学教授・僧侶】 |
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かわりゆく我がふる里のふるごとを |
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伝えおかばや後の世のため |
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C 高橋 亦助翁 彰徳碑 |
広場の奥、右側に高炉型の碑があります。
釜石の製鉄の功労者、高橋亦助(たかはしまたすけ)の彰徳碑です。
高橋亦助は嘉永6(1853)年釜石に生まれ、21歳の時から8年間、官営釜石鉱山(製鉄所)に勤めました。その後官営鉱山は廃業となりましたが、明治17年に田中長兵衛が製鉄所の払い下げを受けると、亦助は高炉操業主任として再び鉄づくりに挑みました。操業は失敗の連続でしたが、明治19年10月16日、49回目にして出銑に成功しました。 |
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D 平 和 像 |
釜石市街を一望できる公園の奥に建っているのが「平和像」です。
昭和27年、釜石の永久の平和を祈るための平和像の建立が計画され、3年がかりで建立されました。制作は盛岡市短期大学の堀江赴氏に手によるもので、高さは台座を含め36尺(約10.9m)あります。 |
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※平和像についてはこちらもあわせてご覧下さい
「おやくしさんの不発弾?」
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おやくしさんの歴史 |
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現在の薬師公園のある場所は、かつて「薬師堂」または「十二神」と呼ばれていました。
釜石市誌によると 『古来広厳山医王寺の号あり、薬師如来及び日光菩薩、月光菩薩十二神将を安置し、石井玄仙これを開創す。』 とありますので、薬師如来や十二神将を奉っていたことからそのように呼ばれていたのでしょう。
先に述べた敬天律師は荒れ果てていた薬師堂を整備・再興しまた、そこで生き往生を遂げています。
文化14(1817)年、73歳の時に自ら引導し、小僧に「この鈴が聞こえなくなったら息が絶えたものだと思ってくれ」と言い残して入棺し、37日後に入寂したとのことです。
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現在でも大変見晴らしの良い薬師公園ですが、その昔も名勝として知られていたようです。
敬天律師が選んだ釜石八景の中にも「広厳山の秋の月」として薬師山からの風景が含まれていますが、そのほかにも薬師山からの風景を詠んだ次のような歌が残されています。
「田舎なれども釜石薬師 出船入船目の下に」
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明 治 時 代 の 薬 師 堂 |
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