郷土資料よもやま話

おやくしさんの不発弾?
 薬師山は二度の艦砲射撃で多くの死者を出した釜石の市街を見通せる場所であり、昭和29年に釜石の永久の平和を祈って平和像が建立され、その周辺は公園として整備されています。

 さて、この薬師公園内に大きな鉄の筒が横たわっています。
 この鉄の筒を「艦砲射撃の不発弾」と思っている方が多いかと思いますが、実は不発弾ではありません。それでは一体、この鉄の筒は何なのでしょうか?
 
これは何だと思いますか?
こ れ 、 何 だ と 思 い ま す か ?

 釜石市誌年表に『大正11年5月31日 薬師山上に忠魂碑成る』とあります。

 忠魂碑(ちゅうこんひ)とは日清・日露戦争後に、両戦争での戦死者を弔う為に各地に建てられたものです。砲弾など武器・兵器をかたちどったものが多く、鉄のまち・釜石の忠魂碑も砲弾をかたちどり、鉄で作られたものと考えられます。
 
 忠魂碑のまわりは広場として整備され、見晴らしも良かったことから市民の憩いの場となっていました。
吉田初三郎画 釜石市街鳥瞰図(部分) : 昭和12年市制施行を記念して釜石観光協会が発行した印刷物。左上に忠魂碑が描かれている。
吉田初三郎画 「釜石市街鳥瞰図(部分)」
 昭和12年、市制施行を記念して釜石市観光協会が発行した印刷物。
 忠魂碑が描かれている(左上)。 
戦時中の記念写真 : 並んだ人々の後ろに、砲弾型の忠魂碑が見られる。
戦 時 中 の 記 念 写 真
並んだ人々の後ろ、画面中央に砲弾型の忠魂碑が見られる。

 昭和20年7月14日と8月9日、釜石は二度の艦砲射撃を受けました。
 これにより製鉄所と釜石の街は壊滅的な被害を受け、多くの死傷者が出ました。薬師山の下にも防空壕があり、そこでも多くの方が亡くなっています。

 一度目の艦砲射撃の後、港町に駐屯していた高射砲隊が薬師山に移転してきていました。8月9日の艦砲の際には応戦した高射砲隊を狙ってか薬師山も砲撃を受け、砲弾型の忠魂碑は倒れてしまいました。倒れた忠魂碑の下敷きになって亡くなった方もいたそうです。
破壊された忠魂碑 : 左側の石碑は折れ、砲弾型忠魂碑は倒れてしまっている。
破 壊 さ れ た 忠 魂 碑
左側の石碑は折れ、砲弾型忠魂碑は倒れてしまっている

 下の2枚の写真は昭和27年、平和像建立予定地での写真です。
 砲弾型忠魂碑は横たえられ、折れた石碑はそのままになっています。

 忠魂碑は戦時中、愛国心を高める為に利用されたこともあり、戦後GHQにより撤去されたものもあったようです。薬師山の忠魂碑も再建されることはなく、同じ場所には平和を祈って「平和像」が建立されることとなりました。
平和像建設予定地での記念写真 : 前列中央は沢田権左衛門市長(当時)。 平和像建設予定地での記念写真

前列中央は沢田権左衛門市長(当時)
平和像建設予定地での写真

人物の後ろに横たわっている砲弾型忠魂碑が見られる
平和像建設予定地での写真 : 人物の後ろに横たわっている砲弾型忠魂碑が見られる。

 薬師公園内の『大きな鉄の筒』の正体、おわかりいただけましたでしょうか?

 みなさんも薬師公園を訪れる機会がありましたら、戦中のくらしに思いをはせ、また現在の平和なくらしについて考えてみてください。
現在の薬師公園
ぷらすあるふぁ 艦砲射撃の砲弾
 戦争から長い時間が経過した現在でも、釜石では時々不発弾が発見されることがあります。それでは、どれほどの砲弾が釜石に打ち込まれたのでしょうか?

 アメリカ海軍の資料によると二度の砲撃で釜石には16インチ砲弾1,605発、8インチ砲弾2,120発、5インチ砲弾1,621発、合計5,346発もの砲弾が打ち込まれました。
 ただし、この数には2回目の砲撃に参加したイギリス艦隊の砲弾数は含まれていないので、実際にはそれ以上の数の砲弾を浴びたこととなります。

 資料館では発見された砲弾の一部分を常設展示しています。また、市民の皆さんから寄せられた砲弾の破片なども展示しています。
16インチ砲弾(不発弾) : 直径約40cm、長さ約160cm
16インチ砲弾(不発弾)
直径約40cm、長さ約160cm

【参考資料】
 釜石市:釜石市誌年表、釜石艦砲戦災誌
 奥寺正・姉帯保蔵:懐かしのアルバム



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