八重樫尚伯は、幕末の安政から明治にかけて、釜石の医療にその生涯を捧げた洋法医です。天保7(1836)年4月、宮守村に生まれた尚伯 は、伯父の僧医八重樫元庵に洋法の内外科の医術を学び、洋法医師として宮守村で開業しました。このとき18歳でした。尚伯は、安政4(1857)年に釜石 に移り、明治3(1870)年11月に帰郷するまでの14年間、釜石村の開業医をつとめました。一旦宮守村に戻り、明治5(1872)年学制発布により開 校した下宮守小学校の首座教員として教育に尽力しました。
その後、明治11(1878)年に一家をあげて釜石村に移住し、台村(現在の浜町2丁目)で医院を開業しました。明治14(1881)年 に、釜石村第1回村議会議員選挙が施行され、翌年の改選で尚伯は20人の釜石村議会議員の一人として当選、村議会議長の要職につきました。翌15年、官営 製鉄所の事業が業績不振のため休止状態となり、追い打ちをかけるように釜石村に突如として「コレラ病」が大流行しました。全村人口4,735人のうち患者 数502人、死亡者数204人、家を捨て山野に逃避したのは751戸のうち170戸にも達したといいます。これが、気仙・西閉伊・東閉伊の隣郡にも広がる ほどの猛威であったと記録されています。在村の医師不足の中で、尚伯はコレラ撲滅に奔走した結果、大流行したコレラはその年の冬に収束しました。明治 20(1887)年6月1日、岩手県知事石井省一郎からコレラ防疫の功績を称えられ、褒状を授与されました。
尚伯は、生涯を釜石の医療に尽力し、大正元(1912)年9月21日に77歳で亡くなりました。法名は、済世堂髯翁翔伯居士。「済世」とは、命を救う・生活を助けるという意味で、尚伯の生涯の功績を称えたものです。