村井家の祖先は、近江商人の弥右衛門という人で、天正年間に、兄弟七人が行商して陸奥国南部領を訪れ、やがて遠野(上郷町佐比内)に居を定めました。弥右衛門は、姓を出身地の近江と名のり、開墾・植林・鉱山採掘を手がけて地域一帯の開発に努力しました。
その三代のちの儀右衛門は、藩から三閉伊酒屋封印(酒造吟味取り締まりの役)を仰せ付けられ、釜石に移住して村井姓を名乗ります。
その子、儀兵衛は天保4(1833)年に生まれました。屋号を"あわび屋"として今の浜町3丁目一帯の土地や山を所有し、海産・米穀・酒造業などを営む富商となりました。
慶応から明治初年にかけて凶作・飢饉が発生し、多くの窮民が出ました。この時、儀兵衛は、釜石村民の窮乏を救済するため、度々倉庫を開き金 銭を施しています。その後、明治5(1872)年に釜石村の初代戸長、同14年には村議会議員となりましたが、明治17(1884)年、儀兵衛は50歳の 若さで亡くなりました。
儀兵衛の長男の辰五郎は、嘉永6(1853)年に生まれました。父の事業を拡大しつつ、釜石村の三代目戸長や町議会議員としても活躍しまし た。明治16(1883)年、釜石に大火があって学校、寺など街の大部分が焼失してしまったとき、辰五郎は、翌17年、数千円を投じて二階建ての学校を建 築して敷地とともにこれを寄付し、のちに岩手県、賞勲局、大日本教育会、釜石町から教育功労者として表彰されました。明治29(1896)年の三陸大津波 では、罹災者のため玄米三十石を救恤米として役場に出し、石巻から米二百石を取り寄せ時価の三割安で売りさばいて感謝されました。辰五郎は、釜石郵便局長 となって在職三十余年、釜石の名望家としてたたえられ、大正12(1923)年に69歳で亡くなりました。
石応禅寺墓地の中央参道石段登り口左手に村井家の墓地があって、その中に笠付きの立派な墓碑が目につきます。これが親子二代にわたる"慈善家"として知られた村井家の墓碑で、その表面に刻まれている法名の文字は、山岡鉄舟が書いたものです。