遠洋漁業・三陸養殖業の先駆者だった気骨あふれる漁業家兄弟、水上助三郎・斎之助兄弟は、釜石にとって忘れ得ぬ偉大な人物です。
長男助三郎は元治元(1864)年2月28日、二男斎之助は明治2(1869)年10月1日、仙台領気仙郡吉浜の千歳部落(現・大船渡市三陸町吉浜)で比較的裕福な半漁半農の水上助十郎を父として生まれました。
夢多き野心家であった助三郎は、「海の資源で新しい産業を興す」ことを心に決め、明治28(1895)年、31歳の時にオットセイ狩りに乗 り出しました。弟の斎之助と力を合わせて事業を進め、明治30(1897)年、ついに大型帆船「千歳丸(74t)」を唐丹湾に浮かべました。翌年、助三郎 は千島方面に出漁し大成功を収め、後にベーリング海で空前のオットセイ大猟獲を得て「日本のオットセイ王」の勇名を全国に広め、巨万の富を築きました。
さらに、水上兄弟は、樺太の漁場を手に入れて北洋サケ・マス漁業においても活躍、わが国水産業の先駆的な存在となりました。斎之助は、明治39(1906)年、唐丹村小白浜に分家しましたが、その後も兄の脇役に徹し、事業を発展させました。
助三郎は、後年「耕海富国」という言葉を好み、アワビの形を大きくし品質を改良した「吉浜(キッピン)アワビ」の中国輸出や松島湾杉の裏で のカキ・ウナギ養殖、ワカメ加工、建網漁場の経営など三陸漁場の振興に大きな足跡を残し、大正11(1922)年7月30日、東北大学付属病院で、58歳 という若さで亡くなりました。
一方、弟の斎之助は、昭和7(1932)年衆議院議員に当選、同12(1937)年には唐丹村長に選任されました。その間、養蚕業を奨励し 桑園の開設を進め、晩年には「漁民は海に頼りすぎて山をかえりみない。山はいざというときに助けてくれる」という考えから、学校林として山林三町歩を寄付 するなど植林事業にも力を注ぎました。また、同8(1933)年に発生した三陸大津波による荒廃地を自ら開田したり、治水事業に力を入れたりするなど多く の功績を残し、同19(1944)年10月5日、76歳で惜しまれつつ亡くなりました。