三浦 命助

1820-1864

 栗林村の三浦命助は嘉永6(1853)年5月、三閉伊通に発生した百姓一揆の代表的指導者の一人です。

 三浦命助は文政3(1820)年盛岡藩栗林村肝入りの分家、定助の長男として生まれました。少年時代には遠野町の小沼八郎兵衛を師として四書五経と大学を学びました。

 17歳から3年間秋田藩の院内銀山(現在の秋田湯沢市院内銀山)で坑夫として働きました。20歳の時に帰村し、三閉伊通の農漁村のあいだで荷駄商いに従事します。

 34歳の時、嘉永6(1853)年の三閉伊一揆が起きると命助も加わり、仙台(伊達)藩に越訴します。仙台藩に越訴した一揆の要求は、命助たち主導のもとに、これまでの税の減免や藩の専売制度に反対するものから、藩主の交代や藩政改革などの政治的なものに発展していきました。中でも、前藩主利義の復職及び帰国、三閉伊通の農民を仙台領民にするか、三閉伊通を幕府直轄もしくは仙台領にすることを求める要求は南部藩の政治に対する激しい不信・不満を表すものでした。この一揆は、盛岡藩政の改革につながり、一揆側の勝利に終わりました。

 命助は一揆の終息後、栗林村に帰って老名役となりましたが、村の騒動に巻き込まれ、身の危険を感じ1年足らずで出奔しました。仙台領に滞在し、この間出家して東封院の住職となります。

 37歳の時、仙台領を離れ京都へ上り、醍醐三宝院から院号・錦地を許され、二条家の家臣となり、38歳の時、栗林村へ向かうため、二条家の家臣として家来と共に平田御番所を通り、甲子村に宿をとりました。このことが平田御番所から大槌代官所へ報告され、脱藩の罪で捕らえられ、盛岡の牢に送られます。入牢して7年目の元治元(1864)年に牢死し、45歳で生涯を終えます。

 なお、命助が牢中で記した一揆の内情や心情、命助の人生観、政治観、経済観、宗教観、家族への今後の処世などが綴られた『三浦命助獄中記』は、『三浦命助日記』、『同裏書』とともに三浦命助関係資料として市の指定文化財となっています。