真壁喜六は、嘉永5(1852)年2月11日、岩手郡上田村(現・盛岡市)に真壁又五郎の長男として生まれ、幕末・明治維新という変革の時流に乗り勉学に励みました。
喜六は、明治8年(1857)に23歳の若さで、岩手県第十三大区一番所(大槌村)の一等書記という官選の役人になりました。次いで同扱所 副戸長となった喜六は、同12年には大槌村・小鎚村戸長、同15年には父又五郎の後を継いで両石村戸長、同17年には両石、箱崎、鵜住居、片岸、栗林およ び橋野の六ヵ村戸長役場の戸長となっています。同22年の町村制施行によって両石、箱崎、鵜住居、片岸の四ヵ村が合併して鵜住居村となり、喜六は初代村長 に当選して、大正2(1913)年まで31年間村政にあたりました。
喜六が村政に携わってきた中で最大の仕事は、明治29(1896)年の三陸大津波の災害復旧事業でした。6月15日、端午の節句の夜、大津 波が三陸沿岸を襲いました。両石湾で生業していた桑の浜、両石、水海の人家は壊滅的な被害を受け、両石では人口958人のうち824人が死亡し、その悲惨 さは舌筆に尽くしがたいものでした。
喜六は、大津波による大災害の復旧、漁業権紛争の調停、不漁・不作などによる村勢窮乏の打開策としての養蚕業の導入、交通網の開発など積極 的な振興策を実施し、民生の安定に尽力しました。これらの功績によって、明治38(1905)年、岩手県知事から表彰されています。その後も、同44年に は片岸地区の農民を結集して、農地改善事業の基盤である用水路施設を整備しました。
大正2(1913)年には、栗橋村の村長に迎えられましたが、同6年病に倒れて退職しています。このときまで戸長時代から数えて実に44年間にもわたり、鵜住居村を中心として、周辺地域の発展に尽力しました。
喜六は、大正8(1919)年3月29日、69歳で亡くなりました。
両石財産区議会では、喜六が亡くなってから56年後の昭和50(1975)年2月、その功績を後世に伝えようと、地元「洞」の地に「両石村役場跡・両石小学校跡」の記念碑と並べて「真壁喜六村長彰徳碑」を建立しました。