安政2(1855)年、酒造業や質屋を営む釜石村場所前(現・浜町1丁目)の富商・小軽米家(屋号・岩手屋)に生まれた汪は、上京して法律 専門学校を卒業した英才で、明治20(1887)年12月8日、33歳にして釜石から初めて県議に当選、政治の光を沿岸にもたらしました。その後、同25 年と同29年の改選にも当選、県政界の渦中で「新知識人、法律家らしい論客」として、県政の桧舞台で大いに活躍した快男子です。
当時の選挙は、被選挙権者は地租税十円以上を納める者で、地租税五円以上を納める者を有権者とした戸主選挙だったので、沿岸地域からの県議選出の意義は極めて大きいものがありました。
小軽米汪は、長身、総髪で立派な髯をたくわえ、自由民権運動の県南における「旗手」として注目を集めました。県議会においては、困窮する沿 岸地域の実情を訴えて地元漁民の権利を主張し、また、東北線の開通に見合う宮古や釜石街道の改修に関する道路政策を推進しました。さらに、釜石鉱山田中製 鉄所の大橋〜鈴子間における馬車鉄道敷設に関する諮問案では、「製鉄所の増産計画を図るためには、馬車鉄道は不可欠なものだ」と精力的に根回しを行い同案 を可決に導くなど、県政の中枢においてその政治力をいかんなく発揮しました。
しかし、明治29(1896)年6月15日夜、三陸沿岸を襲った大津波で不幸にもその犠牲となってしまいました。時に県議三期目、42歳の 厄年でありました。襲い来たる津波にのまれたとき「天何んぞ吾に年を仮さざるか残念なり…」と絶叫したまま波間に没したと伝えられています。この大津波で 小軽米家は全滅。墓地は石応禅寺の浜町公墓地にあり、現在は、親戚により守られています。