菊池智賢

 智賢和尚は、安政3(1856)年、山田町船越にて菊池藤六の四男として生まれました。幼少の時に、船越の曹洞宗海蔵寺二十二世興禅和尚に より得度し、のちに石応禅寺十四世大応道英和尚により宗派の教えを授かりました。明治20(1887)年、師大応道英の死後、智賢和尚29歳の春、石応禅 寺15世住職となりました。

 この時期の釜石は、再三にわたる大火事と明治15(1882)年に発生したコレラまん延の後で、大変な世相でした。当時の石応禅寺は、現在 の浜町3丁目の幸楼付近にあり、再度の大火で焼失したため仮堂になっていました。このような状況の中で、住職になった智賢和尚は、早速寺院の再建にとりか かりました。

第一に、お寺の位置について熟考し、今後の釜石の発展を考えて、中心地となる現在地に移転再建すべきであることを力説しました。当初、檀家総代や住民はこれに強く反対しますが、やがて了解を得て工事にとりかかりました。

 明治25(1892)年5月の大火により工事は再び中止となりましたが、田中製鉄所横山久太郎所長の援助を得て再開し、同年12月に庫裏を、翌年に本堂が完成し、明治29(1896)年4月に三尊の入佛式を挙行しました。

 それから2カ月後の6月15日早暁に発生した明治三陸大津波は、釜石に甚大な被害を与えました。釜石全体では、死者4,041人、流出家屋 898戸でした。この大津波に、智賢和尚はいち早くお寺を罹災者の救出のために開放し、救護活動をしました。大津波被災後の町の復興、寺院の再建は非常に 難航しましたが、大正11(1923)年4月8日に石応禅寺の落慶をみました。

 智賢和尚は、現在、東北有数の曹洞宗寺院である石応禅寺の基礎作りをした禅僧であり、一面文筆家でもありました。明治29(1896)年の 大津波の被害報告書は、その実状をつぶさに記録しています。また、風流人でもあり、交友に工藤大助(俳痴)がいて、俳諧をたしなみ、号を凡仙と称して、釜 石における俳句界の草分けでもありました。昭和2(1927)年5月25日、71歳で往生を遂げ、本山からは中興号をおくられました。