かまいしの民俗芸能



 釜石は三陸沿岸の郷土芸能を一堂に集めたところと言われており、その豊かさと多彩な点で、他にその類をみません。代表的な郷土芸能として、神楽・太神楽・鹿踊・虎舞など、多種にわたった芸能が伝承されています。
 釜石に伝わる民俗芸能の中から、県と市の指定文化財に指定されている団体をご紹介いたします。


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なんぶはんじゅしょういんねんぎょうじしはいだいかぐら   南部藩壽松院年行司支配太神楽
南部藩壽松院年行司支配太神楽  
県指定文化財 平成25年4月5日指定  

 南部藩壽松院年行司支配太神楽(以下、年行司太神楽という)は、元禄12年(1699)に釜石の守護神である尾崎大明神(現在の尾崎神社)の遥拝所が建立されるさい、南部藩の御給人であった佐野家(屋号は鈴屋という)の夫人が御神体を安置する六角大神輿を寄進したことから、盛岡藩の芸能集団である七軒丁から伊勢太神楽を習って御神体の御供として奉納したものである。その際、盛岡藩の修験を地域単位で管理する年行事のうち閉伊郡を担当していた壽松院(盛岡において竹川稲荷の別当を勤めていた)によって、御神体を警護する年行司に任ぜられたといわれている。

 七軒丁の活動が途絶えてしまった現在、年行司太神楽は七軒丁の実態をしのばせる、生きた痕跡として貴重であり、藩政期における芸能に迫る手がかりとなるものである。

 年行司太神楽は今日でも釜石三社といわれる釜石総鎮守八雲神社・尾崎神社・綿津見神社の祭典において、いずれも守護役として御神体が渡御するさい最前列に位置して露払いを勤めており、また、20年に1度の伊勢神宮式年遷宮でも奉納している。さまざまな芸能が伝承されている釜石市内でも、年行司太神楽は、歴史に支えられた由緒と格式を誇る団体として群を抜いている。

 盛岡藩の芸能集団である七軒丁から伝承された年行司太神楽は、太神楽の変遷の過程を示すものとして貴重であり、また、各社の祭典において先導する役割や家々の悪魔祓いを担当する役割を担っている。

 
 

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たんないかぐら   丹内神楽
丹内神楽
市指定文化財 昭和48年2月27日指定  

 明治5年に修験宗が廃止、山伏が帰農して、山伏神楽が里神楽に衣替えしたとき、栗林町沢田神の前の川崎小六が、黒森神楽の同行であった明延法師を師匠として神楽舞を習うとともに、黒森神社に参籠して、舞、囃しを修得した。

 また、早池峰に赴いて研究を深めるなどして、自ら同行頭となって丹内神楽を組織したのが、栗林の人々によって、そのまま継承され今日に至っている。

 
 

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常龍山御神楽   じょうりゅうさんみかぐら
常龍山御神楽
市指定文化財 昭和48年2月27日指定  

 常龍山御神楽は「権現さま」と称する「獅子頭」をもって舞う踊りである。

 その由来には、「常龍山大権現」と称された天照御祖神社に奉納する“御神楽”であるとともに危難をはらう舞とされている。

 この御神楽に奉持される「権現さま」の歴史を辿ると発祥は「岩沢権現」といわれ、赤獅子頭であったのを、寛永3年に常龍山に安置され、いわゆる「常龍山権現」として奉持されるようになった。

 大津波や凶作、悪疫の流行のときなど、この「権現さま」を持ちだし、危難払いのために舞ったのがそのはじめであるといわれている。

 

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さわだししおどり   沢田鹿踊
沢田鹿踊
市指定文化財 昭和55年3月28日指定  

 沢田鹿踊は元禄年間から伝わる郷土芸能で、おおよそ約330年前ごろ、房州生まれの唯善伝治という人が栗林町沢田の善左右衛門且助家にワラジを脱ぎ、以来この地に住みつき享保2年に没している。

 この唯善伝治から沢田部落の若者とともに砂子畑の若者たちが鹿踊の教えを受けた。

 勇壮な踊りとして定評があり、現在まで踊り伝えられ無形文化財として貴重な存在である。

 
 

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片岸虎舞   かたぎしとらまい
片岸虎舞
市指定文化財 平成10年7月30日指定  

 片岸虎舞は、江戸時代中期、近松門左衛門の人形浄瑠璃に端を発し、江戸歌舞伎で上演された「国姓爺合戦」の劇中「千里ガ竹」の場に、和藤内の虎退治の場面があるが、それを風流舞の「虎踊り」とされたものが「虎舞」となったと伝えられている。虎の勢いのよい仕草とテンポの速い囃子が虎の勇壮な舞と合わせて、山田方面の大沢より伝播し近郷に広がった踊りとされている。

 片岸で虎舞が始められておよそ200余年になると言われているが、確証はない。しかし、片岸に現在も伝わる大太鼓の銘書に文化年間の記銘があり、このことから江戸時代末期には、すでに踊られていたことが知られる。

 

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りょういしとらまい   両石虎舞
両石虎舞
市指定文化財 平成10年7月30日指定  

 両石虎舞は、航海の安全と大漁祈願として江戸時代中期から踊り始められたと伝えられている。

 両石地区は、津波による全域の被害を被りながらも、三陸漁場を臨む漁港として、また、江戸時代後期には、近代製鉄発祥の橋野高炉より出銑の船積場として賑繁な漁港であった。祭礼時には、岸から岸へ小船を並べ繋ぐ船橋を、御輿や、威勢のよい虎舞や山車等が渡る光景は、活気あふれる浜祭りとして好評を博したと言い伝えられている。

 
 

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錦町虎舞   にしきちょうとらまい
錦町虎舞
市指定文化財 平成10年7月30日指定  

 錦町虎舞は、門前虎舞と称したが町名の変更により錦町となり、現在は浜町3丁目となっているが、前町名のまま「錦町虎舞」と呼称している。

 虎頭も古昔は権現頭を虎様に彫刻したものを使用していたが、大正期に門前居住の藤沢高一氏により工夫製作された張り子製となりよりリアルなものに変化し、軽くて自由に虎頭を動かせることにより、舞が活発勇壮に踊るようになったと同町の虎舞の長老故澤田長助氏は語っていた。

 舞歴としては、毎年10月の尾崎祭、6月の綿津見祭の祭礼供奉の他、各種芸能大会で披露されている。

 錦町虎舞は市内虎舞団体の中でも重厚で内容豊かな代表的団体といわれている。その他として刺鳥舞、狐獲り、おかめ漫才、御祝、甚句等も伝承されている。

 

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おさきちょうとらまい   尾崎町虎舞
尾崎町虎舞
市指定文化財 平成10年7月30日指定  

 尾崎町虎舞は、尾崎町の町名を称しているが、元は台村と言われ現在は浜町2丁目に伝わる「尾崎虎舞」が前身である。

 山田方面の大沢虎舞の流れと言われ、「松倉虎舞」に始まると伝えられている。松倉虎舞は、江戸時代の元禄14年(1701)に甲子町立後に駅場として、交易の賑繁時に盛岡の七軒町(現西仙北町1丁目)から芸能者の来訪により「松倉大神楽」が伝承されたと同期頃、前述の「大沢虎舞」から伝授されたといわれている。それだけに「尾崎町虎舞」は「錦町虎舞」とは凡そ数年後に伝承された伝統を持つと考えられる。

 この地域は、特に漁師町から、勢のよい浜っ子の気風が威勢のよい独特な囃子と虎の雄雄しさを特徴として発揮されている。他に龍虎舞、刺鳥舞なども受け継がれている。

 
 

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鵜住居虎舞   うのすまいとらまい
鵜住居虎舞
市指定文化財 平成24年11月28日指定  

 鵜住居虎舞は、鵜住神社に奉納する舞であり、鵜住神社祭典には御神輿のお供として参加する。

 昭和初期に銅版が巻いてある横笛が発見された。その笛には「巳之松」の銘が刻まれており、言い伝えなどにより江戸時代末期のものであると推測される。また、伝承者は江戸時代中期頃の創始と伝えている。

 鵜住居虎舞は太神楽の拍子を取り入れたようにも思われる趣を持ち、虎頭踊りは優雅で「雌虎」と言われる。手踊りの演目が多いのが特徴である。

 

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こがわししおどり   小川鹿踊
小川鹿踊
市指定文化財 平成24年11月28日指定  

 明治15年から16年に甲子村社(洞泉神社)の祭典の際、小川集落には特別な芸能が無いために下回り役ばかりさせられていることに苦慮し、以前から交流の あった遠野郷上郷村火尻(森の下)集落に伝えられている鹿踊の習得のため三名の若者を派遣し6ヶ月間農作業を手伝う傍らそれぞれ笛、太鼓、踊の習得に励み 小川に持ち帰りその後小川集落の若者達が集まり集落ぐるみの練習に取り組み現在まで継承されている。

 小川鹿踊は優雅な中に野に遊ぶ鹿達の姿が表現され当時この集落にも多く生息していたという鹿と住民との結びつきを伺うことが出来る。

 
 

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東前太神楽   ひがしまえだいかぐら
東前太神楽
市指定文化財 平成25年12月24日指定  

 天明3年(1783年)以降に奉納されたと言われている。演目は、通り舞、獅子舞、狂い獅子の東前太神楽に加え、子ども達で構成される東前七福神も一緒に披露されることが多く、活動は活発である。太神楽の演目の中に七福神を加えているケースは市内では他に無く、後世に引き継ぐべき貴重な文化財である。

 

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ほんごういせかぐら   本郷伊勢神楽
本郷伊勢神楽
市指定文化財 平成28年4月28日指定  

 本郷伊勢神楽は、伊達藩政時代以前から伝わっていたといわれる。

 藩政時代にも代々の藩主の庇護を受け、現在に至っている。伊勢神楽は代神楽ともいい、そのために獅子舞により家屋の中に舞い込み、悪魔祓い・火伏せ・無 病息災・家内安全を祈る祈祷舞をすると、伊勢参りの代参の意味にもあたると言われている。また子宝に恵まれない方などには、オカメ舞に出舞すると子宝に恵まれるとも言われている。

 身体の弱い方や頭痛もちの方は、獅子頭に噛んでもらえば病が治るとも言われている。

 
 

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砂子畑鹿踊   すなごはたししおどり
砂子畑鹿踊
市指定文化財 平成29年3月29日指定  

 砂子畑鹿踊は約330年前、元禄年間(1688〜1703)に栗林町沢田に住みついた房州出身の唯喜伝治から砂子畑の若者が教えられたのが始まりである。

 同じく唯喜伝治に教わった沢田鹿踊や神ノ沢鹿踊、大槌在の鹿踊と大筋ではいずれも同じであるが、唄の文句や踊り方を少しずつ変えて教えたといわれたおり、一方で、長い年月の間に変わってきたこともあるかもしれない。後に砂子畑鹿踊りは水海や外山、田郷に指導し、各地区の鹿踊が継承されている。

 

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かみのさわししおどり   神ノ沢鹿踊
神ノ沢鹿踊
市指定文化財 平成29年3月29日指定  

 約330年前、元禄年間(1688〜1703)に房州出身の唯喜伝治が栗林町沢田に住みついた。

 唯喜伝治は砂子畑や沢田の若者に鹿踊を教えた。神ノ沢の萬藏という人も唯喜伝治から鹿踊を教わり、それが、神ノ沢鹿踊の始まりと伝えられる。萬藏という人は、人に優れて覚えはよく、笛・太鼓・唄・踊りの極意を納め、鹿踊の天才であった。旧鵜住居村では最も古い芸能で、各神社の丁印(神社の最初に歌や踊りを奉納する芸能)として祭典の時には、神ノ沢鹿踊だけで参拝と踊りを奉納し、祭りを盛らせたという。

 
 

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