C 長谷川時雨文学碑 「旧聞日本橋」 ・ 林芙美子文学碑 「波 濤」 |
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大渡町・八幡宮の傍ら、甲子川を見下ろす場所に長谷川時雨【はせがわしぐれ】の文学碑があります。
長谷川時雨は明治12(1879)年東京日本橋に生まれ、明治30年に鉄成金の息子と結婚します。しかしその息子が遊び人であったため釜石鉱山へ追われ、3年間を釜石で暮らすこととなります。
釜石で暮らした3年間が文学への出発点となったと本人も作中で回想しており、その一節が碑文となっています。 |
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同じく大渡町・釜石小学校の校門前には、林芙美子【はやしふみこ】の文学碑があります。
林芙美子は明治37(1903)年、山口県下関*で生まれ、長谷川時雨主宰の雑誌に詩が掲載されたことがきっかけとなり文壇デビューします。その後『放浪記』の連載で人気を博し、一躍流行作家となりました。
戦時中には報道班員として中国や朝鮮・東南アジアなどに赴き、戦後は多くの新聞雑誌に連載をし続け、昭和26(1951)年心臓麻痺のため急逝しました。
芙美子は、昭和13(1938)年新聞小説『波濤』の取材のため釜石を訪れています。
*福岡県門司との説もある
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碑 文 |
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舊 聞 日 本 橋
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長 谷 川 時 雨 |
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この山住みの丸三年は、あたしに真の青春を教えてくれた。肝心の預けられた息子は居たたまれなくて何かにつけて東京へ帰って長くいるので、あたしは独居の勉強ができた。
県道からグッと下におりて、大きな岩石に囲まれた瀬川の岸に、岩を机とし床として朝から夕方まで水を眺めくらして、ぼんやりと思索していた。
あるときは水の流れに、書いても書きつくされないような小説を心で書き流していた。 |
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長谷川時雨(一八七九年〜一九四一年)
明治・大正の劇作家
明治三十年から三年間、釜石で新婚時代を過ごす。
大渡川のほとりで思索するなど釜石の山村の一つ家できく雨の音はしみじみと多感な心に響いた。
そして筆名に時雨という美しい名が浮かんだという「文学開眼の地」となる。 |
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波 濤
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林 芙 美 子 |
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製鐵所の工場の中では窓々に燈火が皎々とついてゐるし、鐵を打つ音が、があん、があんと大きく四圍に響いてゐる。
溶鑛爐の火は、谷間の暗い町の上に、明るい火の粉を散らしてゐる。
佐山は小高くなった町はづれの、丘の方へ上がってゆきながら、華々しく火を噴いてゐる溶鑛爐の炎を眺めてゐた。青い炎、赤い炎、町の賑やかな燈火、暗い丘の上から町を見てゐると、さながら、上海の夜のやうにも思へた。
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林芙美子(一九〇三年〜一九四一年)
作家、昭和十四年釜石を取材訪問。釜石製鐵所を舞台に小説「波濤」を朝日新聞に連載して話題になる。 |
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釜石を訪れた林芙美子(中央) |
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ア ク セ ス |
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【所在地】 |
・長谷川時雨文学碑
釜石市大渡町 八幡宮近く |
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・林芙美子文学碑
釜石市大渡町 釜石小学校入口 |
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