その6. かまいし文学碑めぐり@
釜石市文化財審議委員会 
 
会長 菊池 清人  

 釜石は鉄と魚のまちとして発展し、近年では近代製鉄150
周年、橋野高炉跡のユネスコ世界遺産登録構成資産入りと、これまで培ってきたものづくりの灯火が全国的に注目を浴びてきています。

 このようないわゆる労働の町には人々の往来があり、多くの著名な文人たちが訪れています。この言霊を後世に残していくため建てられた文学碑が市内には多くあります。今回から数回に分けて、これらを紹介していきたいと思います。
かまいしの文学碑マップはこちら↓をご覧ください

 @ 児 島 大 梅 の 句 碑
 江戸時代の文人の碑は、釜石市内に2件あります。

 1つは橋野町の芳形にある児島大梅 【こじまたいばい】の句碑です。



 
これは文政10(1827)年、江戸の俳人である児島大梅が、山田に住む弟子・貫洞卓堂を訪ねる途中に立ち寄った芳形の茶屋で詠んだ句を、師匠来遊記念として貫洞卓堂・小森卓郎らが文政12(1829)年に石碑としたものです。この時代の中央文化人との交流を示す資料となっています。


 
遠野横田城から界木峠、種戸坂を越え大槌代官所に至る街道を、大槌街道または和山街道といいます。この街道は塩の道とも呼ばれ、江戸時代においては主要な交通路で、駅屋や茶屋が設置されていました。このうち、種戸坂の手前の芳形にもかつて茶屋が二軒ほどあって、今もその跡が残っています。
  ア ク セ ス   拓  本
【所在地】 釜石市橋野町21地割*

*山中にあるので、案内なしで現地に向かうのは難しいと思います。詳しい場所については釜石市教育委員会までお問合せください。
【表】 雨迺日(あめのひ)や
座敷まで来流(くる)馬迺蠅(うまのはえ)
【裏】 文政十二巳丑八月
門人 方寸 廬 卓堂
    樗   巣 卓郎
児島大梅の句碑についてはこちらもご覧ください → 釜石の文化財 
 A 測 量 の 碑

 唐丹の有力者にして博学者であった葛西昌丕 【かさいまさひろ】 は、伊能忠敬 【いのうただたか】 の測量について、一行が測量した13年後の文化11(1814)年に碑を建立し顕彰しました。


 昌丕自身も研究をしていたようで、碑文に「若し西洋の説に拠らば、即ちまた所謂地球の微動あらざらんか。請い願わくば後世の諸彦或いはその移動を知らんことを
(西洋の説によれば地球は動いているということだが、後世の人はどうかそれを確かめて欲しい)」という言葉を残しています。


 
葛西昌丕は多彩な才能を発揮した人であったようで、唐丹地区には昌丕の揮毫による石碑が残っており、また天照御祖神社扁額には昌丕の詠んだ和歌が見られます。

  ア ク セ ス   拓  本
【所在地】 釜石市唐丹町字大曽根
詳しい地図はこちら

星座石、嘉遯翁遺愛碑(昌丕の死後、弟子たちによって建てられた)も同じ場所にあります。
測量の碑、天照御祖神社扁額についてはこちらもご覧ください → 釜石の文化財