釜石産の鉄瓶 釜石市郷土資料館 運営委員
松本 武郷土資料館では61点の鉄瓶を所蔵しています。このうち、釜石にて製造された鉄瓶は3点あります。このほかに花瓶も1点所蔵しています。
菊花蝶文
銘:富士鐵マーク、菊池一男富士形 貝尽し図
銘:釜石銕山製富士形 桜花流水文
銘:釜石銕山製明治の初め、釜石村字鈴子に製鐵所が建設され、多くの人々が釜石に定住することとなりました。それによって生活に必要な鍋、釜や雑器類の需要が増え、従業員のため製鐵所構内で鉄器の鋳造をするようになりました。
明治時代、釜石製鐵所構内の現在は変電所(変換所)のある山を「平山」と呼んでいました。この「平山」の東方に、鋳造砂*1に適した砂があったため、平山の崖下に鉄瓶や鍋釜などを造る小屋が作られました。
明治時代の鋳物場 鋳造全般の技術指導にあたったのが高橋亦助*2(高炉操業主任)と共に高炉操業の立役者であった村井源兵衛(機械設備主任)で、鋳物造りの神様と呼ばれていました。
大正期(田中鉱山株式会社)になると初代技監(技師長)香村小録の紹介で山本茗次郎*3(鹿州又は香志真・東京美術学校鋳金科本科卒)が釜石鉱業所技師に任ぜられ、鋳鉄課長となったことにより、茶の湯釜・鉄瓶等の鉄器の質の向上がはかられ、用と美を兼ね備えた工芸的価値のあるものとなりました。これらの鉄器は「釜石銕山製」の銘が入り、販売もされていました。
釜石市小川町の山神社鳥居にかかる山神社の扁額の「山神」の字は香村小録、「明治二十七年十一月」の文字は村井源兵衛の筆であり、我が国初のコークスを燃料とした初湯で鋳造された扁額で、貴重な遺物です。
山神社扁額 戦後の富士製鐵時代には、「鉄瓶屋」と呼ばれた菊池一男氏の銘の入った茶の湯釜、鉄瓶、火鉢等が鋳造されましたが、これは製鐵所の顧客や社の役員と管理職からの注文品や贈答、一般職員への操業記念、年満退職記念のために鋳造されたもので、市場での販売はありませんでした。
明治後期より続いた釜石の鉄器造りの伝統ですが、菊池氏が釜石製鐵所を退職した昭和39年で途絶えてしまいました。鉄器製作の技術をひととおり身につけるには30〜40年かかると言われており、菊池氏の退職後はそういった『職人』を育成することが困難となり、釜石の鉄器づくりの伝承は途絶えたのです。
*1 鋳造砂… 鋳物砂とも言う。 鋳型の原料となる砂。
*2高橋亦助(1853〜1918)… 官営時代から製鐵所の技術者として勤務し、田中製鐵時代には村井源兵衛と共に失敗続きであった高炉製銑作業に49回目で成功し、現在の日本の製鉄業に大きな功績を残した。出銑に成功した日(10月16日)は製鐵所の起業記念日となり、また山神社の大祭の日でもある。高橋も村井も共に釜石の出身。
*3 山本茗次郎… 明治6年生まれ。東京美術学校卒業後、東京で10年間教員をした後、大正6年から釜石鉱業所鋳鉄課長となる。大正10年退職、釜石実科高等女学校(現在の釜石南高校)教諭となる。ついで大正13年から尾崎神社の宮司となる。
『鉄瓶屋』菊池一男
明治42年11月5日 遠野市青笹村に生まれる
幼少時に家族が釜石に転居。釜石尋常高等小学校に入る。
(その後、盛岡の鉄瓶職人に弟子入りしていますが、何処の職人に弟子入りしたかは不明です)
昭和9年 日本製鉄株式会社釜石製鐵所入社 25歳
戦後昭和26年ごろより富士製鉄マークと菊池一男印のある茶釜・鉄瓶・火鉢等の作品が遺っています。
鋳物工場は主として鋳鉄管、機械部品等の鋳造を行いましたが、鉄器は職員達を技術指導する中で技術の研鑽(けんさん)と職人(しょくにん)気質(かたぎ)の努力で創作生産されていきました。
昭和39年 勤続30年、55歳で退職
菊池氏はその後尺八、盆栽を趣味として悠々自適な生活をし、平成8年7月、87歳で死去し故郷遠野に眠っています。
テーマ展「かまいしの鉄器展」の様子 テーマ展「かまいしの鉄器展」は平成18年4月27日から5月2日にかけて開催されました。
今回の展示では釜石産の鉄器、なかでも菊池一男氏の作成した鉄瓶、火鉢等を中心に約40点の鉄器を展示いたしました。